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元気!オイテ・マスマス

―いくつになっても社会と関わっていく、参加しつづけるという生き方。―

私は昭和10年生まれの75歳です。
後期高齢者でも、まだまだ元気に働いています。

人生はこれからと、老化予防と体力増進の為にも作業に従事しております。

これからは、若い人から知識を吸収して、身心共に健全なる日々を過ごす所存です。


—旧満州のご出身ということですが、終戦後日本への引き上げを体験されているんですね。
S:満州から1946年、昭和21年6月13日、自分の誕生日に博多港へ引き上げてきました。それが日本へのはじめての上陸でした。

—終戦後の昭和21年(1946年)に引き上げてこられたあとは?
S:鹿児島へ。11歳から19歳まで鹿児島で過ごしました。引き上げてきたころは食べ物もなくて、味噌、醤油、タバコも全部月1回の配給でしたね。親父はタバコが好きだったんですけど、タバコがないもんだから代わりに松の葉っぱを吸っていたんです。あと辞書をちぎって紙巻きタバコにしたりとか。
—やっぱり物資がなかったんですね。
S:だからリンゴやバナナが食べたかったけど、病気じゃないと食べられなかったんです。しかも鹿児島の田舎だったからお店といっても近所には駄菓子屋が1軒しかなかったですし。
  それから昭和29年(1953年)8月12日に陸上自衛隊に入隊しました。
—日付までよく覚えておられますね。
S:昔のことはよく覚えていますよ、昨日のことは忘れちゃうけど(笑)。これは歳を取ったせいでしょうけど。メモを取らないとすぐ忘れちゃうからね。でも終戦後に苦労したことはいつまでも覚えている。これが老人の特徴なんですよ。
  入隊した年の昭和29年は、ちょうど青函連絡船の洞爺丸が座礁転覆する事故の原因となった大きな台風がきた年で、その事故救援をするために9月に北海道に行ったんです。
—いきなり九州から北海道ですか。
S:同じ自衛隊でも長男の人は九州に配属されたんですが、僕は戸籍上四男ですから。当時、次男、三男、四男は全部北海道に送られたんです。救援部隊の第一陣750名に入って北海道に向かいました。
—自衛隊に入隊していかがでしたか?
S:それは鍛えられましたね。もう辞めて帰ろうと何度も思いました。まだ旧軍の人間がいた時代でしたから、その下士官に引っ叩かれてましたね(笑)。
—最初に自衛隊に入隊された昭和29年(1953年)、その当時日本はどういう状況だったんですか?
S:自衛隊は税金泥棒と言われている時代でしたね。警察予備隊から保安隊、それから昭和29年に自衛隊に変わったんです。その第一期生で入隊したわけです。だからよく覚えていますよ。
—日米安保闘争など社会現象の影響はあったんでしょうか。
S:そうそう。そんな時代もありましたね。もう歩けば「税金泥棒!」って。親がいえば子供も同じようにいいますからね。その頃の自衛隊の食事は刑務所と一緒で、外米に麦を入れたものでした。北海道に居たときには代用食のラスクやジャガイモ。当時米軍と基地で一緒になることがあって、道を挟んでこっちはラスク、向こうはビフテキを食べていた。これは戦争に負けるはずだと思いましたね(笑)。
  田中角栄内閣になってから自衛隊もやっと月給になって、多少生活が楽になりましたけど。
—先日たまたま昭和38年に吉田茂元首相が防衛大学第一回卒業式で行った訓示を読んだんですが、自衛隊が国民から歓迎されたり、ちやほやされる状態というのは大きな災害とか、国家存亡の危機とかの状況だろうから、それは良いことではない。非難や誹謗されてもそれは平和な世の中の証だから耐えてほしいという内容でした。
S:自衛隊がなぜ国民に受け入れられたかというと、災害派遣で活躍したからです。それまではもう「税金泥棒!」って(笑)。だから我々が昭和29年に入隊した頃はお金がなかったので、作業服も継ぎ接ぎだらけで。支給が2着あったんですが、1着は新品、でもいつも着ているもう1着は本当にボロボロで(笑)。

—その頃の日本、戦後復興度合いはいかがだったんですか。まだ焼け野原とかの状態が残っていたんですか?
S:自衛隊の基地の一部は修復できていなかったところもありましたが、関東とかはもう9年も経っていたのでだいぶん持ち直していたと思います。でも当時まだ自衛隊はできてすぐだったので、給料も日給月給で安かったですね(笑)。
  入隊した昭和29年(1954年)頃、住んでいた鹿児島はもう平穏でした。ただし仕事は本当になかったですね。いまと同じです。僕は満州から引き上げてきた人間だったから大阪か東京に集団就職で行くつもりだったんです。でも父親が早く亡くなって、母親が一人だったから集団就職したいと言ったら泣くわけですよ。そこで田舎に残るなら夜間高校に行きたかったんで担任に相談したら、住み込みで本屋の就職を紹介してもらったんです。
—本が好きだったんですか。
S:はい。でも本屋もきつかったですね。丁稚(でっち)というのはきついよ。それで考えたんです。ここにこのまま居てはいけないって。
  朝6時に起きて掃除してから本の配達に行った帰り道、自衛隊の施設部隊が川に橋を架ける訓練をしているのを見て「これは良い仕事だな」と。

—それが自衛隊に入るきっかけなんですね。
S:それですぐに自転車を止めて、部隊の人にどうやったら自衛隊に入ることができるか聞いたんです。そのころはもう仕事がないので自衛隊に入隊したい人がたくさんいましたから狭き門でしたけど。
—でも合格できたんですね。
S:だけど2次試験の身体検査で、体重が足らなかったんです。当時は食べ物がなくて芋ばっかり食べてたからね(笑)。終戦後だったから米はあまりないし、農家でもなかったから。身体検査の担当官が「お前はなんて痩せてるんだ」って。面接の試験官がたまたま関東軍出身の人だったんで、満州出身者の僕に下駄を履かせてくれて採用してくれたんです。

—洞爺丸事故救援後はどちらに?
S:そのまま北海道の千歳にいました。というのは当時の仮想敵国はソ連だったこともあって、主力は北海道に置かれていたんです。北千歳に2年いて、それから東千歳に新設部隊ができるからと、今度はそっちに送られました。そこで下士官候補生の試験に通ったんで、札幌の教育隊に移動してまた2年間。それから25歳、昭和35年7月に、こっち(熊本)に。昔の自衛隊は下士官でないと転勤できませんでしたから、鹿児島には親父が早く亡くなってからオフクロが一人でいたので、早く帰ろうと思ってがんばりましたね。当時僕は職種が10種類あるなかの特科、つまり大砲屋だったんです。ところが故郷の鹿児島には大砲屋がなかったんですよ。九州には大砲屋が福岡と湯布院と熊本にしかありませんでした。ここ熊本か久留米しかなかったんです。だから鹿児島から近い熊本だと思ったんですが、これがとんでもない間違いでした(笑)。
—間違いというのは?
S:あとからわかったんですが、ここが当時一番厳しい部隊だったんです(笑)。
—それからずっと熊本ですか?
S:それからもいろいろと移動はしていますよ。各地の教育隊へ移動していて、青森の六ヶ所村とか、東京に単身赴任とか。うち5年間は高射特科にいたんです。無線誘導機隊のエンジニアチーフを務めたこともありましたから、そのころは東京の新島でミサイル試験を5年間やっていました。当時1発が2,000万円もする地対空ミサイルをアメリカノースロップ社が開発した飛行標的に向かって打ち込む試験をしていたんです。これがなかなか当たらない。外れると2,000万円がパーですから、目の前で退職金が消えていく想いでしたね(笑)。
—東京へは単身赴任ということですが、ご結婚はいつですか?
S:27歳の年ですね。新島に行っていた年にはもう結婚していましたから。九州には母親がいましたけど、自衛隊というのは10年間同じところにいたら転勤させるんですよ。新設される沖縄基地部隊に第一陣で行けと言われたんですけど、九州には母親も家族も、子供も2人もいる。行きたくないから人事課にかけあって何とか転勤を免れてましたね(笑)。
—仕事以外の暮らしの部分はいかがだったんですか?
S:もっぱら子守でしたね(笑)。家内が内職をしていて、女子校の制服を縫製していましたから。そうしないと僕の給料では足らないわけですよ。子供も成長期だからお金も必要だし。

—お子さんは二人兄弟ですか?
S:男2人です。
—いまはお二人とも独立されて熊本を離れていらっしゃいますが、どうですか?
S:僕は子供たちの成長過程でいつも言っていたんです。狭い九州にいるなと。高校、大学を出たら広い世界に出て行けと。それはいろんな苦労もあるでしょうけど、男としては一度広い世界に出て行かないと人間が小さくなるからと。だからいまは年寄りばかり3人で暮らしています(笑)。我が家は平均年齢79歳だもん。
—自衛隊にはいつまで?
1988年、昭和63年6月13日に定年を迎えるまで勤めました。当時自衛隊は53歳が定年でしたから。
—自衛隊を退官されてからは?
S:金融会社勤務とかビル管理とかいろいろやりましたね。技能開発センターの建築美装科にも1年間通って勉強もしましたね。それから電機メーカーの半導体関連の下請け会社で7年間働きましたけど、景気が悪くなったからリストラも経験して。
—2010年にA-SAT熊本事業所ができてから、事業所でお仕事をしておられますけど、どうですか?
S:最初は不安でしたね。どういう仕事内容かもわからなかったですし。でもいまはいろいろと慣れてきて皆とワイワイ仕事できますからね。いま一緒に働いている若い2人には、これからどんどん成長してもらって熊本事業所の中核に育ってもらいたいと願っています。

—作業をしていらっしゃる姿を拝見するとすごく楽しそうですね。
S:自宅でじっとしているよりずいぶん楽しい(笑)。それから時間が経つのが早いですね。もう一生懸命夢中で作業するから。
—会長は年齢からいうと後期高齢者ですが、周りの同年代の方とかはいかがですか?
S:自衛隊のOB会とかに出かけると、「まだ働いてるの?」とよく言われますね(笑)。そんなときには「こんなに楽しいのに、家にいたらもったいない」って言うんですよ。自分が働いているから言うんじゃないですが、家に居ると老けてくるんですよ。頭はあまり使わないし、テレビばっかり見ていても一方通行でしょ。だから僕は若い人と交流したいわけですよ。
—若い世代の人と一緒に仕事するのはどうですか?
S:楽しいですよ。自衛隊でも同じだったんですが、若い人は僕らの世代が知らないことをたくさん知っていますから。パソコンとか本を読むだけではわからないでしょ。でも若い人は聞いたらちゃんと教えてくれるから、僕は説明を聞いてメモを取ったりして一生懸命勉強しています。忘れないように(笑)。「ああ、こういうこともあるんだな」という、いままで触れたことがない新しい知識をもらえる。若い人とのディスカッションは本当に楽しいですよ。


いつもにこやかな笑顔を絶やさない鈴木一誠さん。

若い頃は自衛隊で厳しい教官として有名だったそうですが、いま当時の思い出話を本当に楽しそうに語る彼の笑顔を見ていると、その厳しさは次の世代をなんとか一人前にしたいという愛情からのことであったろうと感じます。

鈴木一誠


1935年(昭和10年)/6月13日旧満州四平省生まれ。
鹿児島県出身

エーサット株式会社会長

父は満州鉄道に勤める鉄道マンだった。
2010年にA-SATが熊本事業所を開設してから、会長職でありながら足しげく事業所に通い、孫世代の若い人と一緒に業務作業に当たっている。
御年76歳(2011年現在)