Hiroyuki

Hiroyuki

ほんの少しのボタンの掛け違い

―エーサット熊本事業所に勤務する『元・引きこもり』ヒロユキのお話。―

彼は若干22歳。
彼は現在熊本事業所を大学の通信過程で経済を勉強しながら運営に携わっている。

私が仕事上、得意先の立場なら「本当にこの仕事を頼んでもいいのだろうか?」と多少不安になってしまうような年齢と容姿。
聞くところによるとA-SATが熊本事業所を開設してしばらくの間、実際にそのような声が顧客の中にあったらしい。

だが、彼の誠実に業務に取り組む姿勢と、クオリティアップへの挑戦を目の当たりにした顧客は、その不安を大きな喜びに変えることができたそうだ。

彼はヒロユキ。

小学校2年生から20歳まで「どうやって人と関わっていいのかわからない」少年だった。


—いきなりですが、なぜ引きこもったんですか?
H:実際には世間でいわれるようなニートとか完全に引きこもったわけじゃなくて、不登校だったんです。
—どれくらいの間?
H:小学校2年生から中学校3年生まで。義務教育の期間です。
—高校は?
H:高校は1年生、2年生の時までは無欠席で通学していました。3年生の5月に中退しましたけど。だからそれまでは普通に。
—そのあとは?
H:そこからは予備校ですね。予備校に2年間。17歳から20歳の間ですね。でも予備校も途中で辞めてしまいましたけど(笑)。

—A-SATに入社したきっかけは?
H:予備校を辞めてパソコンばかりやっていた2009年の12月、20歳のときに父親の友人で会社を経営している人と出会う機会があったんです。僕に手を焼いていた父親は、その友人がやっている会社のことや事業のことを僕に話してやってくれと頼んだみたいですね。僕は幼い頃から「企業の社長になりたい」という夢というか大口を両親に叩いていましたから(笑)。それで父親がその状況から脱出する糸口を掴めるようにと頼んだみたいですね。ちょうど僕が家の二階でパソコンをやっているとき、その社長さんにいきなり踏み込まれました(笑)。いまでは笑い話ですが、そのときには何がなんだかわからなかったんですね。
—その自室のパソコン部屋に踏み込まれた2009年12月ころは何をやっていたんですか?
H:そのときには何もしてませんでしたね。勉強も何も。ちょっとバイトしてみたりとか、俗にいうプラプラしていました。何もしたくなかったんです。このまま好きなパソコンだけやっていたいと思っていました。
—ではこの間は世間でいう引きこもりだったのかもしれませんね。そのお父さんの友人の方にお会いして、何かが変わりましたか?
H:今から考えると非常に失礼なんですけど、いきなりその社長さんに部屋に踏み込まれて顔を見ても誰かもわからないし、そのとき部屋でちょうどパソコンに熱中していて、「話そう」といわれても「今はいいや」って断っちゃったんです(笑)。そのあとで父親からその方が半導体事業に関わっていることとかも聞かされて、踏み込んできた人が何者だったのかやっとわかったんです。それからいろいろ考えましたけど、興味もあったので話を聞いてみたくなったんです。
—その社長さんときちんと対話ができたのは?
H:その後2ヶ月ぐらいしてから、またお会いするきっかけを父親がつくってくれて。いろいろ話を聞いてもらってたら「本当に会社がやりたかったらグズグスしないですぐハローワークへ行け!」って(笑)。でも半導体のこととか、企業経営についておもしろい話をしてもらいましたね。
—A-SATの鈴木社長との出会いはどうだったんですか?
ハローワークで求人を見ていたら、同じように半導体に関わる仕事が目についたんです。それがA-SATでした。
  連絡を取ってみたら鈴木社長が熊本の出身ということもわかって。こちらに帰郷されるタイミングに、熊本空港に会いにいきました。最初はA-SATの詳しい会社概要や、父の友人と同じように「会社経営」の話を聞けるということだったので気軽な気持ちで出かけたら、それが実は面接だったんです。空港で鈴木社長と顔を合わせたら、いきなり怖い顔で「履歴書は?」って(笑)。
—鈴木社長らしいやり方ですね。
  入社後に大学に入学したとうかがっていますが、高校を中退したということは、大学検定の資格を取ったということですか?
H:大学検定に合格したのは、高校を辞めた夏です。通っていたのが工業高校の電子科で、2年生のときまでは高等専門学校に編入する気だったんです。でも生物学がやりたくなって、生物学が勉強できる大学に行きたくなったんです。
だから予備校に入り直しました。
—学者とか研究者になりたかったってことですか?
H:はい。
—でも会社の経営者になりたいという夢もあったじゃないですか。その気持ちが切り替わったのはいつですか?
H:会社経営をやりたいという夢を持っていたのはすごく幼いときからです。一方で学校では教科の中で生物学に興味がありましたから、だから興味がある生物学から何か発展できれば、みたいなことを漠然と考えていましたけど・・・。でもいきなりは会社の経営者になれないということがわかってきて。
—それで大学へ入って経済の勉強をしているわけですね。
H:はい。でも大学に入ったのはA-SATへの入社とセットです。会社に入ったのは2010年3月ですね。それで同じ年の5月に産業能率大学の通信教育課程に入学しました。入社とセットというのは、鈴木社長が大学を最後までやり遂げるという条件付きで入学金と学費を貸し付けてくれたんです。
—それもまた手厚いですね。

-生まれ故郷に近い熊本事業所にはいつ来たんですか。
H:2010年10月ですね。
—具体的には熊本事業所というのは、どういった内容の仕事をしているんですか?
H:半導体製造の付帯装置の整備を中心に業務を行っています。
—この熊本事業所に来て、ずいぶん年の離れた中高齢者の方と一緒に仕事をなさっていますが、どうですか。
H:まあ高齢者の方という意識もあるんですけど、同じ仕事をするわけですから一番は身内というか家族という感覚があるんです。だからあまり「高齢者」という特別な意識はありませんね。会長からはいろいろと、経験談を休み時間に聞かせてもらっています。会長が経験されてきた太平洋戦争や近代の歴史、自衛官時代の話とか、いろいろご苦労なさってきたことは、自分にとっては大切な知識や知恵としてどんどん入ってきますから聞いていてもおもしろいです。
—この熊本事業所は20代、30代の方もいらっしゃいますが、そこからいきなりジャンプして70代とジェネレーションギャップが大きいんですが、そのあたりはどうなんですか?
H:もちろん体のこととか、安全に対する配慮とかは気を使うところもあります。でもあまり不自然だとかギャップを感じるというわけではなくて、ごく自然なこととして受け止めていますし、先ほど言いましたように家族のような安心感がありますね。

−いま「家族」という言葉が出ましたけど、ご両親にはずいぶん心配をかけたと思うんですが、いまご両親に対してどういう想いがありますか。
H:親に対しては感謝をしています。親に何らかの不備があって不登校になったわけでもありませんし、自分は自分ですから。でも本当に心配はかけたなと思っています。
—親の立場からすると我が子が不登校になったりすると、もうどうしていいのかわからなくなると思うんですけど。いまだと同じようなお子さんがいると、診療内科医に見せたり、カウンセリングを受けさせたりする人が多いんですが。
H:自分も経験しました(笑)。医者のカウンセリングを受けさせられたり、子供自然の家のようなところに預けられそうになったり。でも親の思い通りにはならなかったと思います。そういう意味ではすごく心配をかけましたね。最初に学校に行けなくなったときには、まだ自分の学校には不登校児というのが生まれた事例がなかったんですよ。学校ではじめて出た不登校児だったんです。
—パイオニアだったんですね(笑)。でもそうなると大人たちは学校に行かない原因を懸命に探したんじゃないですか。
H:そうですね。親も先生も理由を探していました。でもその頃というのは、僕は大人と対話することがほとんどできなくて、自分の考えや想いを伝えることができなかったんです。学校の先生たちも僕の声をほとんど聞いたことがないくらいだったんですよ。同じ子供同士だとしゃべることができたんですけど。
—それはなぜですか?
H:極端な照れ屋だったんです。保育園に入った頃からもう、そういう状態でした。

—ご両親は?
H:親に対してはしゃべってましたね。でも「先生」という集団をまとめる大人に対してはしゃべることができませんでした。なんか変に意識をしてしまって。自分の中に何か学校という集団生活に朝向かうというのに漠然と拒否感もあったんですね。周りは学校に行って当たり前だというけど、なぜそれが当たり前なのか疑問だったんですね。
—でも将来、自分がやりたいことをやるためには、読み書きであったり、計算ができるとか社会的なシステムの知識を備えることがどうしても必要なことなんですよね。そのために学校に行くわけなんですけども。
H:そうですね。僕の場合は小さい頃だったんですけども、「なぜ学校に行かなければいけないのか」という疑問というか拒否感が生まれてしまって。その答えが見いだせなかったというのもありますね。ただ理由もわからないのに学校に行って、決まった時間拘束されて、「必ずそこにいなければいけない」というのが重荷というかプレッシャーでした。不登校になってからは学校がある時間は外に出なくなって、同級生が帰ってくる時間になってから外に出ていましたね。その辺は世間的に気にするほうでしたから「なんでこんな時間に子供がいるんだろう」と思われるのが嫌でしたから。
—それは近所の目というか、親の地域の評判への配慮とかもあるんですね。でも同級生とかが学校から帰ってくると、一緒に遊んでいたんですね。
H:最初は。放課後の遊びというのは学校の延長上にありますから、だんだん遊ぶ子も減ってきて。でも必ず一人か二人は遊びにきてくれる子がいて、その子たちのおかげで本当に助かりましたね。
—同世代でひとりぼっちにならずにすんだということですね。でもご両親も困ったでしょうね。そうなるともしかして「遊びに行こう」とかって家を連れ出されたんだけど、着いた先が病院だったり、施設だったりしたことがあるんじゃないですか。
H:よくありました(笑)。親には「遊びに行く」といって連れて出られたわけですから、「これは騙された」と思って、絶対に車から降りませんでした。そうなるとこの親の企みに絶対に乗ってやるもんかって余計に意固地になりましたね。ですから心理テストとかをされて、絵を描けといわれても、子供が普通描かないような絵を描いたり、わざと変で心配になるような結果がでるようにしたりとか。
—それは医者や親は心理テストの結果を見て心配したでしょうね。ことごとくご両親のチャレンジは失敗に終わっていたわけですね。

—でも義務教育を不登校で過ごしていたあとで、高校には行こうと思ったという、そのきっかけは何ですか?
H:不安感ですね。このままではヤバいというのは、小学校3年生あたりから感じていたんです。勉強にもついていけなくなっているのがわかっていたので、それが嫌だったんですが、どうしても学校に行くことができなかったですね。中学校への入学とか節目節目では何とか学校に行こうとしたんですけど、やっぱりだんだん行かなくなってしまいました。
—重大な決心をして思い立った中学校に行けなくなった理由というのは何ですか?
H:耐えられなかったですね。小学校にほとんどに行ってないので、勉強にもついていけなかったし、何せ人に時間管理をされることに慣れていませんでした。毎朝同じように学校に通うことができなくなってきて、それで余計に行きづらくなってしまいました。
—それでも高校は持ち直して行けたわけですよね。それはなぜですか?
H:高校というのは義務教育と違って入学試験があるし、中学校2年生くらいに「高校は出ていていないと先が見えなくなるのでは」という恐怖心に襲われていたからです。高校に行けば3年間は答えを出すことを先に延ばせるという気持ちもありましたし。だから自分の住んでいる地域からちょっと離れた塾に通って、自分のことを誰も知らない人たちの中で、小学校で習う勉強から教えてもらいました。
—それで何とか高校に入ることができたんですね。
H:高校ではテストの点を取る要領だけは良かったんです(笑)。でもそれよりも学校に行くようになってたくさんの友達ができたことが何よりもうれしかったですね。やっといままでの小学校、中学校での大切な部分を取り戻せたような気がしました。

—普通というか世間でいう「引きこもり」とか「不登校」というのは、年度が変わってもそれに罪悪感を覚えることはあっても、重い腰を上げようとかそういう気持ちにならないイメージがあるんですけど。
H:なぜか将来のことは考えるほうでしたから、何もできなくなるのは妙にプライドが許さなかったんです。このまま行ったらマズイなと思いながらも、家族の前では強気なことを言っていたんです。その分、そんな大口を叩きながら高校に行けないと情けないと思ったんです。高校の前の中学入学ではすぐ学校に行けなくなったので、このチャンスが最後だと思っていましたから、1日も休まずに学校に行くと決めていたんです。広い地域から集まってきた同級生たちの中には同じように不登校だった同級生も何人かいましたし、気持ちが楽になって、恥ずかしいと感じていた不登校だった時期のことを笑い話にすることができました。
-そんな苦しい10代を経てこの会社に入社されたわけですが、一社会人として仕事に対峙したときはどうでしたか?
H:まだよくわからないところは正直あります。でも達成感はありました。今年も3月期とか忙しい時期を乗り越えることができて、毎日家にいる頃に比べるとすごく充実していますし。まあ大変というのもあるんですが、自分の中でも会社から給料をいただいて、100%でないにせよ自分のお金で生活ができているというのはある程度自信には繋がっています。
  ただ一緒に熊本事業所を立ち上げた先輩が会社を去ることになって、心配な部分がありました。その先輩がやっていた業務を自分がやらなくてはいけなくなったんですけど、ここのところやっと何とか見通しがたった感じがします。

—では引きこもりというか、同じような境遇に苦しんでいる人に対して何かメッセージはありますか?
H:正直、世間でいう「引きこもり」という人の気持ちがわかるわけではありません。僕はただ家にあったパソコンとかに触れているのが好きだったから、家に居たいと思っただけです。だからどうしても家から出られないとか、出たくないと思っていたわけではありません。
—世間では十把一絡げで「引きこもり」といっていますけど、その中にもいろいろなパターンがあるわけですね。
H:そうですね。僕の場合は友達から誘われると普通に遊びに出ていましたから。
  僕自身が思う「引きこもり」のイメージというのは、まず食事とかトイレとか以外は自分専用の部屋からあまり出ないで、鍵も掛けて親とかも入れないような感じなんです。僕の場合は部屋も兄弟と共有だったし、食事も家族団らんの中で食べていました。
—ということは、世間全般でイメージされる「引きこもり」ではなかったと。
H:ただ不登校になる人の気持ちはわかるかもしれませんし、そのようなお子さんを持つ親御さんに対しても伝えられることはあると思います。子供は大人が理解できないようなほんの小さなことで躓くし、子供なりにいろんなプレッシャーや悩みがあっても、それを何とかしようと一生懸命やっていると思うんです。だから時間はかかるかもしれませんが、小さなきっかけを何らかのチャンスとして大きく変わる可能性を秘めていることはわかってほしいと思います。


-いつまでも留まりたいと思っていた薄暗い部屋の中に居るときと同じように、今も自らの未来に希望と不安と悩みを抱いている。

しかし、彼は周囲の大きな愛情を糧に、まばゆく輝くと同時に、
自分の部屋よりもダークで喪失感に溢れた社会に飛び出すことができた。

彼が考えていた以上にいま社会は混沌としているが、自分自身の身の丈を認め、そこから自分の未来を構築する確かな一歩を踏みしめている。

その場に留まって悩み続けるのではなく、彼が少年の日に感じた不遇や不条理の再来を恐れずに思い切って一歩を踏み出したことは、同じように苦しむ多くの人にも勇気を与える一歩であると感じる。

ヒロユキ


小学校2年から中学校3年(義務教育期間中)は不登校。
高校1年、2年は登校したが、3年の5月に中退。生物学がやりたかったので、その後、予備校に2年行く。
当時、小学校にとっては初の不登校児で、先生も親も周囲はどうしてよいのかわからない事態だった。あまりにもシャイな性格のため、学校の先生や大人に対しては話すことができなかった。
現在は、大学の通信教育課程に通いながら、A-SAT熊本事業所に勤務。

 

その後のヒロユキを追ってみた・・・・・